竹中重治

竹中重治

特別養護老人ホームたんぽぽ苑 介護職員 佐藤


「戦国武将が人気で、若い女の人が城めぐりをしている。」とニュースでみかけました。

その理由のひとつとして最近のゲームで戦国武将がカッコよく描かれていたり(現実離れし過ぎている、活躍した年齢設定が無茶苦茶な所もかなりありますが)、大河ドラマで人気のある俳優が出演したりしているのが、ひとつの理由だそうです。

僕も戦国時代については好きです。

きっかけというか、興味を持ち始めたのは、やっぱりゲームからです。

小学5年生の頃、友達の家に遊びに行った時に、友達の兄が戦国時代の国盗りのシュミレーションゲームをしていた事が始まりです。その時は、色々と聞きながらやっているのを見ていました。

その後、戦国時代の本を買い各武将の紹介や生き様などの解説を読んでいくうちにおもしろくなっていきました。織田信長、徳川家康、武田信玄、上杉謙信(他にもまだまだいますが)といった一国一城の主、つまり、大名の名前は、そんなに歴史に詳しくない人でも知っていると思います。そういった大名を支えた武将たちが数多くいます。数多くいる戦国武将の中から、僕が好きな武将の一人を紹介したいと思います。

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、半兵衛(はんべえ)の通称が有名である。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師として活躍した名将で、戦国時代を代表する軍師であり、同時代の黒田孝高(黒田官兵衛)と並んで天才軍師と称されている。

天文13年(1544年)9月11日、美濃斎藤氏の家臣で不破郡岩手城主・竹中重元の子として生まれる。

永禄3年(1560年)、父の死去により家督を継ぎ、美濃菩提山城主となって斎藤義龍に仕えた。永禄4年(1561年)に斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤義興に仕える。

この頃、尾張の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなるが、義龍時代は信長の攻勢を防いでいた。しかし義龍が死去すると、後を継いだ龍興が若年・凡庸だったために家臣団に動揺が走り、一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となった。そのような状況を見た信長が永禄4年(1561年)7月に美濃に侵攻してくるが、斎藤勢は重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。

永禄6年(1563年)にも新加納で織田勢と戦い、このときも重治の戦術のために斎藤勢は勝利した。

ところが、主君の龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や美濃三人衆(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)を政務から遠ざけていた。このため永禄7年(1564年)2月、弟の重矩や舅の安藤守就と共に龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人(『竹中雑記』、17人という説も)の部下とともにわずか1日で奪取した。織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を明け渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した。

そして自らは斎藤家を去り、北近江の戦国大名である浅井長政の客分として仕えたのである。

永禄10年(1567年)、信長の侵攻により美濃斎藤氏は滅亡した。すると信長は、重治を家臣として登用したいと考え、美濃攻めで頭角を現していた木下藤吉郎秀吉(羽柴秀吉)に織田家に仕えるように誘わせた。重治はこのとき、秀吉の才能を見抜いたとされており、信長に仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることは了承したとされる。

後に信長包囲網が敷かれ、信長と浅井長政が敵対関係になると、重治はかつて長政の家臣時代にあった浅井家臣団との人脈関係などにより、主に調略活動で活躍した。元亀元年(1570年)には浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせている。直後の姉川の戦いにも参加した。

秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。天正6年(1578年)に宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して(有岡城の戦い)、秀吉幕僚の黒田孝高(黒田官兵衛)が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は秀吉に偽の首を進呈させ、松寿丸の命を助けたのである。この後、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。

天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させたが、重治はすでに自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して6月13日に死去。享年36歳。死因は肺の病気(肺炎か肺結核)とされる。

  • 黒田孝高(官兵衛)と共に「両兵衛」・「二兵衛」と称され、中国の漢王朝創設に活躍した陳平に例えられている。信長の軍勢を寡勢で何度も破ったことから、軍略の天才として、「今楠木」と称された。
  • 重治の活躍は『武功夜話』や、江戸時代の軍記物である『太閤記』、子の重門が江戸時代に記した『豊鏡』などによって描かれている。江戸時代の講談などで、黒田孝高とともに天才軍師の人物像が固まり、現在の人気に至っている。しかしながら『信長公記』などに記されている記事が少ないことから、織田家の位置づけとしては、秀吉の幕僚グループの一人であると考えられている。信長にあくまで仕えなかったのは、信長が軍師というような参謀を好まない上、信長自身が優秀すぎることから、仮に仕えても重用されないと考えたため、あるいは信長を感情的に嫌ったためとされる。
  • 有名なエピソードとして稲葉山城乗っ取り事件があるが、この理由に関しては龍興に対する怨恨であるとする説や、安藤守就の失脚のためとする説などがある。『太閤記』では重治は龍興に対する諫止のために奪取を行い、信長から美濃半国と引き換えに帰服する条件を持ち掛けられるが断り、自ら城を引き渡して隠棲した話が記されている。隠棲する重治を秀吉が家臣に迎えるエピソードは『三国志演義』における劉備が諸葛亮を迎える三顧の礼がモデルになっていると指摘されており(諸葛亮が重治、劉備が秀吉、関羽・張飛が蜂須賀正勝・前野長康に置き換えられていると言われている)、浅井氏攻め、中国攻め、長篠の戦いにおける活躍でも同様の指摘がされている。
  • 長篠の戦いで、武田勢の一部が向かって左側に移動した。秀吉は回りこまれるのではないかと焦ったが、重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではないかと進言した。秀吉は重治に従わず迎撃のため兵を動かしたが、重治は反対した挙句手勢と共に持ち場を離れなかった。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が不在の地点に攻め寄せた。重治が守っている間に秀吉もあわてて帰還し、重治が正しかったことが証明された。
  • 中国攻めの陣中で病死する際には秀吉は京で養生するように戒めたが、重治は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったとされる。また最後の策として、三木城兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させている。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも通じている。
  • 重治はいつも貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。秀吉が「貴殿の身分でその貧相な馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、実際の戦闘のときにその名馬を惜しんで戦機を逃がすことになりますから、これがいいのです」と述べたとされる。

竹中重治竹中重治

「竹中重治」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2009年5月23日 (土) 08:11、URL: http://ja.wikipedia.org

重治は、36歳の若さで病死しましたが彼が長生きしていれば、歴史は変わっていたかもしれません。このことは、他の武将にも言えることですが……


職員からのメッセージとして、リレー形式で職員のエッセイを綴っています。

次回は、特別養護老人ホームたんぽぽ苑 看護師 桝田 の予定です。