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新聞を読んで 特別養護老人ホームたんぽぽ苑施設長 桝田

新聞を読んで

特別養護老人ホームたんぽぽ苑施設長 桝田


朝刊に大学生の投稿があり凡人の自分にとっては大変難儀な記事ではありましたが考えてみました。

≪親鸞の悪人正機説、悪人とは誰のことか≫の講義を受けて

私は自分でも真面目な学生だと思っています。それを誇りにしています。しかし、授業態度の悪い学生、遅刻してくる学生を見ると腹がたって仕方がありませんでした。

でも講義を通して、私の真面目さってなんなのか、ということを考えさせられました。

私が誇りに思っている真面目さで、態度の悪い人を平気で裁き軽蔑している。

そんな私に気づいたとき、私の傲慢さを嫌というほど見せつけられた気がしました。

「真面目な人には真面目な人なりの限界があり、不真面目な人には、不真面目な人なりの悲しさもあるのではないか。」

と綴られていました。

 

悪人正義説、「善人でさえも往生できるのだから、ましてや悪人ならなおさらである。」

「善人よりも悪人の方が救われる。」このような、非理論の理論あるいは逆説的理論を、なかなか理解することは困難ですが、親鸞のいう善悪は、倫理的・道徳的な善悪よりも広い意味であり、決して法律で罰せられるべき人を悪人と呼んでいるものではないということです。

御自身を客観的に見つめると、他人に迷惑をかけている、動物の命を頂き、修行も成し遂げられない、反省、ざんげ、自覚があるからこそ、「私こそが悪人」といえたのでしょう。

つまり、親鸞ほどの方が悪人なのであるから、我々誰もが悪人と言えるのではないでしょうか。

ところが、善人と思い込んでいる人は、反省、ざんげ、自覚など全く無いので、自分の悪事にも気付かず過ごすことになるというのです。

最近の社会を考えたとき、「悪いこと」の基準がますます無くなって、その結果誰もが悪いと感じ無くなり、世の中はます混沌として荒れ狂っていくような気がしてなりません。

「悪」の基準は、世間の常識に合わせていると、どんどん変わっていくような気がします。

自分は悪人だ、頑張って、頑張って善行を積もうというところから出発するのが、親鸞の「悪人正機」の教えではないでしょうか。

 

 


職員からのメッセージとして、リレー形式で職員のエッセイを綴っています。

次回は、 特別養護老人ホームたんぽぽ苑看護職員向井の予定です。