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私の人生、昭和に生まれてよかった。 特別養護老人ホームたんぽぽ苑調理職員 沖田

特別養護老人ホームたんぽぽ苑調理職員 沖田

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鹿児島県姶良郡蒲生町で昭和29年に生まれる。

10歳のときの11月に、蒸気機関車にゆられ、父の仕事の関係で家族七人で岐阜県庁建設中の岐阜市へ。
「間組」大手会社現場近くのプレハブ住宅に連れてこられて、子ども心に「すごい所へ来てしまったなあ」と思いました。

学校で、転校生として紹介されたときも、はずかしいのと、しゃべる言葉も覚えておらず、周りの子に良くからかわれましたが、でも両親は、家族のために必死で働いてくれてるんだと思うと、我慢もできました。

引っ越しもよくしました。

三回目にやっと落ち着き家を借りたとき、父が、テレビ、洗濯機、こたつを買ってきてくれすごく嬉しかったことを覚えています。
ここからが、私たち家族そろって生活するスタート地点だったと思います。(ただ私がずっと一緒に暮らすことができたのは5年ほどでした)

中学卒業後は、働きながら住み込みで、定時制に通い、辛い時もあったけれど周りはみな地方から出てきた生徒がほとんどで、すぐ友達もできました。
時には、けんかもして泣きながら寮まで歩いて帰ったこともありましたが、お互いに助け合いながら、寄り添ってきたような気がします。
陸上部の部活は、先輩、後輩の立場もはっきりしていて、厳しかったけれど楽しい学生時代を過ごすことができた4年間でした。

卒業を間近にして各々が進路を決める中、私も調理師の資格を取得し、栄養士を目指して働きながら名古屋の専門学校(夜間)へ2年間通いました。
1年間は寮に入り、2年目は妹と岐阜で下宿生活をしながら通うのですが、電車・バスに乗り換え2時間30分くらいかかったでしょうか。
部活は合唱部。といっても休みを利用して、孤児院慰問、老人ホーム慰問を目的に参加していました。

高校の暮らす会は2、3年に1回は会うようにしています。


専門学校の仲間も会を作り、最初のころは何回か会っていたけれども、各々が家族ができるなどなかなか会えず遠のいていますが、会いたい気持ちは常にあります。

友達は、私の生きる糧だと思っています。

私も専門学校卒業後結婚して、子どもが1人生まれ2人生まれ、次男が生後5ヶ月のとき、夫の兄さんと大工仕事を一緒にすることとなり、昭和55年8月に家族で神岡へ。気候に慣れるまでには3年かかったかな。

神岡へ来た年に56豪雪にあって、大雪で住まいのとおりは孤立してしまい大変な年でした。この時ほど春が待ち遠しく思えたことはなかったです。
長い冬から春が訪れ山の木々の新緑がなんとも新鮮で感動したことは忘れもしません。
この時、四季がはっきりしている良いところに来てよかったなと感じました。

神岡での生活は、38年になります。

大変な時期、苦労もあったけれど、たくさんの人の出会い、関りがあったからこそ今の私があります。
家族も増え、9人家族みな各々に育った環境は違うけれど、お互いを思う気持ちは一緒です。孫の2人にも癒されています。

今年の2月に保育園の集いに参加したとき、昔ながらの遊びで、皿回し、こま回し、けん玉、お手玉、あやとり遊びなどが企画されて、楽しい時間を過ごせました。
遊びひとつにしても小さいころから、なんでも考えながらゲームじゃなく学ぶことはとっても良いことですね。
ずっと伝え続けてほしいと思いました。私の原点です。

このメッセージは最後になるでしょう。

亡き父母、夫へのメッセージ。

頑固な父だったけれど、子どもには厳しく、愛情たっぷりでした。
母は父の留守を守り、田畑をしながら女手一つでずって働きづめでした。おやつは焼き芋。でも芋雨も手作りでおいしかった。

第一の故郷。第二の故郷岐阜市。第三の故郷神岡。

ありがとう。
亡き祖父が私に残してくれたメッセージ「人の為になる事を」
学び続けたいと思っています。

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職員からのメッセージとして、リレー形式で職員のエッセイを綴っています。これまでの職員からのメッセージはコチラ→

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