終戦 あれから65年
特別養護老人ホームたんぽぽ苑介護職員 中島
苦しかった戦争 昭和初期。
豊かとなった平成の世へ。
想像もしなかった宇宙探査、通信、インターネット世代と、移り変わりの速さにやっと付いていく者です。
富山大空襲。
まだ小学生だったころ、この山奥の上空にも、B29が爆音を鳴らしてとび、軍事工場があった富山へ爆弾が投下されるたびに夜空が遠く赤々と稲妻のように燃え光った。
或る親しかった90歳近い人を訪ねた。
私おぼえている?
誰やったな。
唄教えていったろ。
「柱の傷はおととしの」「海は広いな大きいな」「今日も暮れゆく異国の丘に」
私と一緒に唄う。
私が時々止めると続けて唄っていく。
少し涙ぐんで、可愛いい唄やなと云う。
あそこの大洞山の天狗さんが守ってくれとるでな。
私が○○さんと云って語りかけていたのを親戚の人が先に座っていて、貴方俳句やっているのですかと聞かれびっくり。
エッどうして?
でもさっきから○○さんと云われるから。
そうだった、この人、本名は△△さんだった。
この人「生け花の先生」
文化祭がくると花材を探しに茂住や東雲の野山を車で駆けめぐった。
私は木の枝振りなどわからないから、山野草ばかり取っていた。
朝庭の水まきをしていたら、近所の人が通りがかりに、
「これ、バイタみたいな胡瓜いるかな? わしゃまだ家に行く途中やで、産地直送やよ」
いつしか忘れている言葉でした。
何と云う言葉だったかな。
一人思い出して笑った。
今、こんな言葉も忘れられていく。
神岡の盆踊りも地域の広場で始まった。
老人は云う。
「昔はな、花街の花魁道中のように下駄をカランコロンと引き摺って歩くような優雅な踊りかただったのに、皆で囃しながら」
飛騨訛りもことばの節まわしにアクセントがあり、面白く生まれた在所がわかった情緒ある舟津弁もありました。
先日、姉の家に寄ったら嘆いていた。
イベントがあると聞いたので、食料品、醤油、油、塩、洗剤を寄付しようと電話したら、訪れた人が、今は箱詰めセットしか扱わないと持っていかなかったと。
今は粉石けんなど使わないんやと。
皆液体で何でも良しになっているものなんやって。
「エッ、私の職場だって粉の洗剤使っているよ。その方が仕事が慣れているので。今それと同じ油スーパーで300円で買って来たよ。それでは全部貰って行く。ありがとう。」
高齢者、ウツ、こんな人が多くなっていく。
様変わりの速さについていけない。
おどおどして。
金があって、欲しいものがあって幸せ、なんのその。
より尊い命の響き合いがほしいです。
職員からのメッセージとして、リレー形式で職員のエッセイを綴っています。
次回は、 ホームヘルプサービスたんぽぽ苑ホームヘルパー 古宿の予定です。